身近な諍(いさか)い
- 副塾長

- 8月15日
- 読了時間: 2分
更新日:8月15日
8月15日、今日は終戦の日です。
日本では戦争は今は行われていませんが、世界を見渡せば戦争はまだある現状です。
戦争はいけないことだ、と誰もが分かってはいるものですが戦争はなくなっていません。
もちろん、反戦の教育も学校で行われていますが、もっと身近なことに置き換えてみると、戦争がない世界、という意味以上の平和で平穏な世の中になるんじゃないか、と感じた本の一節がありました。
『南無阿弥陀仏』著/柳宗悦、121p
だが、末法とは私の周囲をみての嫌悪なのであろうか。それもしかりである。随処に醜悪な場面をみるからである。、、、略。しかし、社会への憤りでは、まだ切実な宗教心とはいえぬ。自身へ向けられた嫌悪でない限りは、まだ穢土への見方はなまぬるいといえよう。私を囲(めぐ)る社会は、直ちに私自身の事ではない。厭離の想いが、何よりもまず我が心内の穢土に注がれる時にこそ、浄土への切なる欣求が湧き上がる。、、、略。考えると我が悪、我が愚はいうもおろか、我が善、我が賢そのものが、既に穢土なのではないか。、、、略。何より現に今、自他の二を分けて、憎愛のさ中に沈んでいるではないか。
身の回りの出来事で嫌なことがあったときそれを嫌だな、と思う心が
そもそも穢土(えど、汚れた世界)を生み出していると、書いてありました。
身の回りのことに対して不満を持つことももちろんですが
「人と本気で向き合っているからだ」
と言ってしまえば聞こえはいいですが
己の未熟さゆえに身近な人ともぶつかってしまうこともあります。
それだとそもそも穢土を自分で作り出してしまっています。
戦争について考えると国家の方針なども関わったり
自分は大丈夫だ、とタカをくくってしまいそうになりますが
身の回りの人とも調和できているか
も自分事として反省して
その後悔と反省を糧にしていかないとな、と思う一日です。
私も1ヶ月に1回はしっかり失敗しているので
猛省です。





コメント